フランスとイスラム教は共存できるのか

フランスとイスラム教は共存できるのか

・はじめに

 EU主導による移民流入が進んだことでフランスにある現象が現れた。それはイスラム教徒とフランス人の対立だ。全てのイスラム教徒が等しくフランス人と対立しているわけではないがフランス独特の政教分離体制「ライシテ」に順応できず、フランス社会に適応できないイスラム教徒は一定数存在している。これによって現在フランス人とイスラム教徒の対立は深刻になった。一部の移民としてのイスラム教徒はライシテに適応しているが、順応するにあたって葛藤が存在したことを推測するにたやすい。実際適応できなかったイスラム教徒による殺人事件がフランスで定期的に発生し、その分断は政治、社会に深刻な影響を及ぼしているのだ。

・ライシテとは何か?

 フランスの「ライシテ」を「政教分離」と訳す傾向があるが、厳密にいうとこれは不適切だ。なぜならフランスの「ライシテ」は日本でいう政教分離よりもはるかに宗教に対して厳しいからである。日本の政教分離も誤解を生んでいる節があるためここで政教分離の定義について説明すると、「政教分離」とは国家と特定の宗教団体の分離だ。これは特定の宗教に既得権を与えないことや特定の宗教が不利益を被らないために生まれたルールである。一方の「ライシテ」は政治と宗教の完全な分離だ。これはフランス史において宗教が国家に与えたダメージが深刻であったために生まれた独自の思想であり、一般の政教分離と混合するのは間違いである。

・ライシテが生まれた理由

 フランスがなぜここまで政治から宗教を排除するようになったのか。その要因は宗教改革以降に起きた国内の宗教戦争である。これは三アンリ戦争とも呼ばれ、カトリック(旧教)とユグノー(新教 カルヴァン派)の対立にヴァロア朝の王位継承問題まで絡んだ、壮絶な殺し合いだ。

 元々、カトリックと密接な関係を築いていたフランスだったが、カトリックの権威が上昇するにつれ国政介入が相次ぎ各王朝は迷惑を被っていた。カトリック全盛の時代、十字軍派遣となれば、各王朝が兵を出し合い出兵するなどバチカン次第で内政に影響が及ぶことを改善したかった当時のフランス王朝はフランス国内にローマ教皇を拉致するなど、様々な方策によってカトリックとのちょうどいい関係を探っていた。国内の教会を自ら管理できる体制が整った後に宗教改革が勃発、キリスト教世界は分裂することになる。フランスはカトリックを国教にしていたため、国家としてはカトリック陣営についていたが、国内におけるカルヴァン派の影響力が増大。ヨーロッパ各地で双方の対立が深刻化するなかフランス国内でも自らの宗教の正当性、そして異端の撲滅を目指し両者の間で殺し合いが始まる。何度も停戦協定ができるも、すぐに破られ延々と戦争は続いた。最終的にはブルボン朝を創始するアンリ4世が即位し、ナントの王令を発布。これによって長きにわたった宗教戦争に一応の決着がつくも、この対立がその後も尾を引き続けることになる。

 このフランス国内を二分し殺戮の悲劇を招いた宗教を政治から完全に排除することで統治の安定化を図ろうと生まれたのがライシテなのだ。実際、このライシテという概念が国内に明確に提示されるのは20世紀になってからで、そこに至るまでに幾度となく、既得権を手にしていたカトリックとその他の宗教や国家との対立は存在している。革命なども経てカトリックの影響力を排除できたからこそ手にしたフランス独自の政教分離、これがライシテなのだ。

・フランス国内外に波紋を呼んだシャルリ・エブド襲撃事件

 このような経緯を経て生まれたライシテとフランス国内のイスラム教徒が現在対立している。その結果としてイスラム教過激派による殺人事件やテロが起きているのだ。世界を驚かした例として「シャルリ・エブド襲撃事件」というものがある。これはフランスで社会風刺を主とした雑誌「シャルリ・エブド」がイスラム教の創始者、ムハンマドを風刺した風刺画を掲載したことに端を発したもので、風刺画に反発したイスラム教徒がシャルリ・エブド本社を襲撃、複数人を殺害した事件だ。これによってフランス国内ではライシテと表現の自由が大きく議論されるようになった。「イスラム教はライシテに適応できないのではないか」という疑問や「移民政策はフランス国内に悪い影響を及ぼしたのではないか」「表現の自由をイスラム教徒は理解していない」などといった意見がフランス国内から噴出し、フランス国内におけるイスラム教徒と非イスラム教徒の間で対立構造が生まれた。しかし、フランスは海外領や植民地としてイスラム圏に影響力を持っていた時代もあれば、16世紀にオスマン帝国と友好な関係を築いていた歴史がある。そのためイスラム教への拒否反応が元々あったものとは考えにくい。そのためフランス国内におけるイスラム教徒を危険視する動きは近年のフランスを巡る動向の中で生まれてきたと考えられるのだ。

・フランスとイスラム教

 フランスとイスラム教の関係に緊張が出てきたのは1990年代中ごろ以降だろう。当時のアルジェリアの政治体制をめぐってフランスがライシテを理由に対立。テロが起きる事態になった。1990年代から2000年代にかけて欧米では過激イスラム教徒によるテロが起きそれが2010年代になるとイスラム国の社会的影響もあってかより急進化した。しかし、これらの行為を行うイスラム教徒はごく一部であり、大多数のイスラム教徒はライシテの中で宗教的行為の実践を行っている。ここからフランスはイスラム教徒によるテロ行為によって危険視し始めたと考えるのが妥当だ。この危険視をするようになったことでフランスのライシテに変化が生まれてくる。まず私立のカトリック系の学校に国が援助を始めた。カトリックへの支援の一方で公立学校におけるイスラム教徒スカーフの着用を禁止することが決まり、公共の場において礼拝をすることを禁じるなどイスラム教への取り締まりの動きが増してきたのである。さらにフランス国内でのイスラム過激派のテロの影響でより一層イスラム教を危険視する動きが強まりル・ペン率いる国民戦線が台頭してくるなどの事象が出てきた。これらの動きを助長した原因の一つとしてEUによる人道的移民政策の影響がある。欧州で話題になったダグラス・マレーの「西洋の自死」はこの移民政策による弊害を多く紹介している興味深い著書だ。イスラム教と西洋社会における歴史・文化の違いなどから果たしてこれらの両立は可能かという問いが欧州、特にフランスには突き付けられている。

・なぜ一部の過激なイスラム教徒はテロを起こすのか

 これはイスラム教の「ジ・ハード(聖戦)」と呼ばれる概念に起因する。これはイスラム教徒においてイスラム教を冒涜する行為は許されざる行為であり、冒涜行為に対する反撃は正当化されるという概念だ。シャルリ・エブド襲撃事件はまさにムハンマドに対する風刺画をイスラム教への冒涜と信者がみなしたがゆえに発生した事件である。こうなると表現の自由がイスラム教に関することだけ規制されることに繋がってしまう。ゆえにフランスはイスラム教と表現の自由、そしてライシテを巡って対立しているのだ。このジ・ハードはイスラム法学者が認めた場合、ジ・ハードと認定となる。ジ・ハードによって命を落とした信者は即天国行きとなり名誉なこととされる。イスラム過激派によるテロが自爆テロとなるのはまさにこのジ・ハードであれば死んでも極楽に行くという思想があるからにほかならない。ネットが発達した今、信者は影響力のあるイスラム法学者や指導者の声をどこでも、国を問わず聞けるようになったことでジ・ハードの解釈が大衆化し刺激を受ける信者が一定数存在している。このイスラム教をめぐる新しい環境(社会)と「ジ・ハード(聖戦)」というイスラム教の概念が過激派を生み出し、テロへと発展する危険性を帯びているのだ。

・ フランスとイスラム教徒は共存できるのか

 私は両者の共存は可能だと考えるが、それには時間を要することは間違いない。元々キリスト教国家としての歴史を持つフランスがイスラムの文化を即時許容できるとは思えないし、する必要もないことだ。宗教の世俗化(要はライシテ)を国是とするフランスという国家にむしろ移民として流入してくるイスラム教徒側が合わせていく必要がある。実際、多くのフランス国内のイスラム教徒はライシテという枠組みの中でいかにして宗教的実践を行うかという課題に取り組み続けている訳であり、誰もが過激派というわけではない。しかし、イスラムの教義上、一部の信者が「ジ・ハード(聖戦)」の名の下に過激化する恐れがあることも承知しなければならないことも確かだ。世俗化していればその危険性は低いのだろうが、可能性がゼロだとは言えないからこそ、移民については慎重に、かつ国家の国体を揺るがすようなことにならないような政策を行う必要があるだろう。イスラム教徒に合わせてフランスがライシテや表現の自由を曲げることはあってはならない。だからこそフランスはその厳格な国是とイスラム教との間でフランスへの適応を求めていかなければならない。国内におけるイスラム教徒の割合が増加しているからこそ、フランスのこれに対する対策は時間がかかるは正確にこなさなければならない重要な事案なのである。

Polimos代表 オカソ

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